昭和五十七年八月十日 朝の御理解
御理解第九十節 「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむすかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる。」
昨日は、いろいろな方のお取り次ぎをさせて頂いたが、中に七十七になられるお婆さんが、先だってからアメリカ旅行をされまして帰って見えて御礼参拝でございました。まあアメリカのあちらのお話しをいろいろ聞かせてもらうて、息子さんが南米ブラジルの方にも行っとられます。去年はブラジルの方へ行かれましたが、もう今は、親先生、飛行機が連れて行ってくれますから、もう楽な事です。足はこんなヨロヨロしとりますけれども、おかげでアメリカ見物が出来たと。先生、あなたもどうでもひとつ、あのうアメリカの方やら南米にやらおいでて下さい。飛行機が連れて・・・いやあ私は、も、身体が、も、弱ってだめですよち、言うたら、親先生、信念をもっておい出なさいち、私に言われました。本当、みんなで丁度、研修の時でしたから大笑いした事でございますけれども。ま、信念をもってという事がですね。私は、やはり信念づけられるというまでが難しいんですよね。信念が段々確固たる、いわゆる信心の確立という、この御理解は恐らく、まあ布教に出る教師に対する御理解であろうと思いますですね。初めの間は、難しい事があるけれども、ね。そこを辛抱していってる間に、徳が受けられると、その徳が受けられるという事がです。いわゆる信念が強く信念が受けられるという事だと思うですね。だからこれは、必ずしも教師だけの事ではありません。お互い信者の一人一人も、の上にもです。これは、言われる。確かにおかげを受けるという事は容易うても、やはり信念を確立していくという事は、やはりそれは上から下へ水を流すようなわけにはいかんです。も、それこそ下から上へ水を流すように難しいですけれども、何十年信心をしてもね。その信心の確立というか信念が段々、こう頂けてくるようになる。確固たる信念が生まれてくるという事に、ま、無頓着な信心をしておる人がたくさんおります。これも昨日、夫婦で初めて奥さんが踊りの師匠をしとられます。夫婦ともこのごろ、病院に入院しておられておかげを頂いて、二人とも退院のおかげを頂いて、初めてその御主人も御礼参拝して見えたんです。それでまあ、いろいろお話しをしましたけれども、ね。やっぱりわかんなさらんような感じ、そりゃ初めて参ってきて家内からいろいろ聞いておると言われるけれども。まあ、分かっておられないのです。それで私が、やっぱり信心もね、お参りをさして頂いておると信心が、こう楽しいもの好きになってきます。そしてやっぱり稽古しょうという気にならなければ出来ません。例えばあのう、お宅の奥さんでも初めから、ま、踊りが出来られたという事ではないでしょう。やっぱり踊りが好きで、ね。稽古されていくうちに名も頂いて師匠の資格も頂かれて、それこそ踊りを踊る事が楽しうてたまらん、ね。はぁ、また踊らんならんという事はない。それはそこにはリズムがあって、そのリズムにのってその手を動かし、ま、していくうちに身体のしなまでが出来てくる。いわゆる身体の品ですね。ただ手足を動かすというだけではなくて、もう、身体全体が踊りを覚えてくる、ね。その頃には、もう楽しいうて、けども踊っても踊っても踊り足りないというか、踊っても踊っても、ま、限りない精進が、また必要であるように。どうですか、お宅の奥さんの踊っておられるのを見てから楽しかろうと思われんですかと言うたら、えらい何かを感じられたようでしたね。信心もやっぱ、そういうもんでしょうねぇと言うような、またお参りを、大体、信心があまり好きでない御主人だそうですけども、またお参りさせて頂きたいと言うて、まあ帰られましたが、ね。いくら好きだから、踊りが好きだからと言うて、見とるだけでは、やっぱり、ね。踊れるもんじゃありませんよ。本当に手を取り足を取りして教えてもらい、しかもその、そこに、ま、リズムがあってリズムにその合っていく。手足を動かすだけではない。身のこなしまでが変わってくる、ね。踊りを踊った人は、その姿勢がよくなる、ね。と、ま、言われておりますように、もう大体の身体つきから変わってくる。
信心もそうです、ね。本気で稽古しょうと、ただ見てるだけでは面白いとか、いいなあと思うだけでなくて、自分もその気になって稽古をする。ですから、例えばそれは例え、難しい事があってもです、ね。それを言うならば、難しい事とせずに、信心の稽古の材料として頂けるようになると問題もまた有り難い。いわゆる問題が問題でなくなって、その問題は信心の稽古の材料として頂けるようになる。ここまで来たら確かですね。問題を問題としてる間は、やっぱり難しいです。けどその問題そのものを稽古の材料とさして頂く信心をね、お互い頂いてまいりますと、本当にこの、初めてお参り、信心のお話しを聞くという事は、なかなかわかりません。やっぱり誰でも。
これも昨日、お母さんが熱心に参って見えるわけ。息子さんが今度、婚約をされたわけではないけども、まあ、お付き合いをしとられるお嬢さんを連れて、一緒に参って来ました。それでお母さんが、あれだけ熱心な信心をされるのだから、お母さんの御信心ぶりというものを、もう見て信心ちゃ成程、有り難いもんだなあという事を感じるけども、自分がなら、本気で稽古しょうというところまでは行っていない。だからどうでも一つ本気で、信心の稽古をさして頂こうという気になると、ね。その確かに物の見方、、感じ方というものが変わってくる。それがなら、奥さんにも伝わっていく、ただ結婚という事が楽しい事ばっかりという事では決してない、ね。楽しい事も楽しくない事もあるけれども、その楽しくない事をむしろ、なら信心の稽古の材料としていけれる二人が、そういう話し合いが出来るようなおかげを頂いたら、もう夫婦一生、いよいよ幸せの、人間の幸せの条件というものが足ろうてくるし、おかげになりますよと言うて、以前に頂いた幸せという字を上から見ても幸せ下から見ても幸せという字をここに書いて見せて、こうやって見せたら、そしたらそのお嬢さんの方が心がえらい動かれた感じです。信心というは、勿論幸せに成るためなんです。けれども、ね。それが、ね。上から読んでも下から読んでもどんな場合であっても、そこに幸せを感じれれる心を育てていく事が信心なんですよ。それをしかも夫婦で話し合いが出来るような信心になったら、もう間違いなく夫婦の幸せだけではない一家の繁栄にもつながる事ですよ、と言うて、ま、お話しをした事でした。けれどもなら、お互いのここで信心の稽古を日々させて頂いとるけれども。やっぱり問題が問題になっておるというような事はないでしょうか、ね。問題そのものが、言うならば信心の稽古の材料です。それにはやはり踊りが好きだけではいかん。稽古を師匠についてさしてもらわなきゃならんように、そこからリズムにあった、言うならば身も心も踊っておる心の状態が段々身についてくる。
信心もそうです、ね。全身全霊で信心の稽古をさしてもらうから全身全霊に、みちみちとしてくる喜びが頂けてくるようになるです、ね。そこに私の前に問題はないという事、ね。問題があまりにお互いの家庭にも多すぎる。それを信心の稽古という事になってくると問題が問題ではない。まあ今、合楽で言われるように一切神愛論といったような事もわかってくる。神愛なんだとしてそれを受けるなら手だてを、ね。御理念によっておかげを頂いてまいりましたら、今日のお話しは、もう一番言うならば、初心の方にまた、初心の方から聞いた、また初心の人にお話しをした事を例にしてから、ま聞いて頂いた。ですから、ま、合楽では一番容易いお話しでしょう。ところがその容易いお話しが、話しは知っとるけれども、自分の身についていないというような事はないでしょうかね。
どうぞ